戦争と空襲

空襲史の幕開け

 

 戦争に空からの攻撃(空爆・空襲)が加わったのは、1902年にライト兄弟が飛行機を発明する以前に1852年フランスのアンリ・ジファールが飛行船を発明して以来実用化に向け開発され、イタリアが1911年の伊土戦争(イタリア×オスマントルコ。1911年~1912年)で、オスマントルコ領のリビアを飛行船を使って空から攻撃したのが最初です。この頃は航空爆撃に適した爆弾の開発や製造体制がまだ整っていなかったため、釘・石・レンガなどを投下するケースもありました。その後第一次世界大戦(1914年7月~1918年11月)で、ドイツが飛行船をつかってロンドンに爆弾を投下しました(ロンドン空襲)。しかし、イギリス軍によって軍事用に開発が進んでいた飛行機による反撃を受け、目立った戦果を挙げないままドイツは飛行船による空襲を飛行機に切り替えます。本格的なドイツ軍による航空機からの爆撃は1911年のバルカン爆撃バルカン爆撃)と1914年のパリ爆撃パリ爆撃)です。

 

精密爆撃から無差別爆撃(都市爆撃)へ

 

 

 第1次世界大戦の後、ヨーロッパ諸国の植民地各地で反乱がおきますが、それを鎮圧するため空からの攻撃手段がとられました。1919年のイギリスによるエジプト爆撃を初め、ソマリランド、メソポタミヤ(現在のイラク)、インド、1925年のフランスによるシリヤやモロッコ攻撃、イタリアによるリビア攻撃、アメリカによるニカラグア攻撃などです。中でも1937年(昭和12年)のドイツ軍によるスペインのゲルニカ大空襲は、悲惨な状況をピカソが描いた絵画「ゲルニカ」などによっても有名です。これは植民地ではありませんでしたが、スペイン国土内の少数民族バスク人に対する弾圧もありました。この空襲は焼夷弾が使用された世界初の空襲とされ、また、都市無差別爆撃の最初の例とされています。(ゲルニカ大空襲焼夷弾無差別爆撃 参照)

 

 第2次世界大戦は1939年のドイツによるポーランド侵攻で火蓋が切られますが、1940年8月24日ドイツ軍はイギリスのロンドンに無差別爆撃を行いました。イギリス軍はその報復として、ドイツの首都ベルリンで夜間焼夷弾爆撃を決行しました。

 

無差別爆撃の展開

 

 第2次世界大戦は1939年のドイツのポーランド侵攻で火蓋が切られますが、1940年8月24日ドイツ軍はイギリスの首都ロンドンの無差別爆撃を行いました。その報復としてイギリス軍はドイツの首都ベルリンの夜間焼夷弾爆撃を敢行しました。その後両国間で都市無差別爆撃の報復合戦が展開することになりました。

 

 1941年から始まった。イギリス・アメリカの連合空軍によるドイツ本土での無差別爆撃は、1943年のハンブルグ大空襲をはじめロッテルダム・ケルンなど国内多数の都市におよび、1945年2月13日から15日にかけての『ドレスデン大空襲』は犠牲者11万人ともいわれ、この期に至るまでの空襲史上最大の惨劇となりました。

 

 

焼夷弾の発明と焦土作戦の展開

 

 ドイツへの空襲では、最初に8,000~12,000ポンドの大型で強力な破壊力を持つ『ブロックバスター爆弾』を投下し、街のブロックごとの建物の屋根や窓を破壊しそのあとに焼夷弾を降りそそぐという徹底的な破壊・焦土作戦がとられ市民の犠牲者の数も膨大なものとなっていきました。

 

 連合軍による無差別爆撃はドイツの占領下にあったベルギーやフランスの都市にもおよび、特にフランスのランカスターやカレー市の都市爆撃は、フランスの大虐殺といわれるほどに峻烈の度を深めていくことになりました。

 

 日本本土においても、東京・大阪・名古屋などの大都市をはじめ国内120以上もの都市が連合国の焼夷弾による無差別爆撃に晒され灰燼に帰し50万以上の犠牲者を出すことになりました。そして核兵器の開発が進むなか、最終的には広島・長崎原爆投下で第2次世界大戦は幕を閉じることになります。