≪宇都宮市・雀宮村・姿川村・平石村・清原村・豊郷村・城山村・国本村・篠井村・瑞穂野村・富屋村・河内町(古里村・田原村)上河内町(羽黒村・絹島村)≫
≪ ≫内の黒文字は昭和20年当時の域内の市町村、紫字は20年以降( )内の市町村が合併して成立した市・町名
アメリカ軍が日本の「中小都市空襲目標都市リスト」としてあげた宇都宮は、180都市の中の55番目にあたっています。しか気象事情などにより空襲が見送られた都市や原爆投下目標都市にあげられて都市無差別爆撃のリストから外された都市(京都、広島、小倉、長崎、新潟)が除かれたことから順位がくり上がり、実際に28番目(関東地方では千葉市についで2番目)に空襲を受けることになりました。
アメリカ軍の空襲攻撃目標としての宇都宮の位置づけは、首都防衛の1単位であり全国に展開する中島飛行機製作所群の連結役の役割をもっていたことにあります。このことは、次のアメリカ軍資料の中に読み取る事が出来ます。『東京から北に60マイル関東平野の北端に位置する宇都宮は、栃木県の県庁所在地で、京浜地域を除く平野部では最大の都市である。1940年当時の人口は87,868人。最近の写真偵察では、中島飛行機製作所の新設工場に隣接する家屋数にはかなりの増加が見られる。この都市の重要性は、東京を取り巻く防衛施設の一つである事、中島飛行機工場群の連結役であることなどである。ー作戦任務報告書(米山和也氏訳)よりー』。宇都宮には師団司令部が置かれていました。宇都宮第十四師団の拠点基地で、第十四師団の満州移駐後は、若干の留守部隊を残し第百十四師団、六十三師団(昭和18年5月編成)、百二十七師団(昭和20年1月編成)などが次々編成され、昭和20年当時六十三師団は奉天で、百二十七師団は満州東部で終戦を迎え、昭和19年4月に編成された第八十一師団が管区内に駐留し茨城県結城で終戦を迎えることになりました。
宇都宮師団は、栃木・茨城・群馬の北関東三県および長野県の松本地区を統括し、首都防衛上の重要な位置づけになっていました。また工場の地方疎開の施策によって、市内や市近郊には、中島飛行機製作所宇都宮製作所(当時工場は、雀宮村、横川村姿川村に展開、これらの地区は戦後宇都宮市に合併)関東工業雀宮工場(雀宮村)、日本製鋼宇都宮製作所(平出村-戦後宇都宮に合併)、各和航空工業宇都宮兵器製作所、三豊製作所宇都宮工場(横川村-戦後宇都宮に合併)など、たくさんの軍事工場が展開していました。また宇都宮陸軍飛行場(清原村-戦後宇都宮に合併-一般に清原飛行場と呼ばれていた)、中島飛行機製作所飛行場(陸軍が使用。一般的に『中島飛行場または宇都宮南飛行場』と呼ばれていた)などがあり空爆の目標となりました。
(以下、空襲の時刻と襲来機数の上で宇都宮警察署の報告と米軍資料との間に若干の差異がある正確な実態の把握は出来ていません)
昭和20年2月10日
アメリカ軍爆撃機B29による群馬県中島飛行機太田製作所、足利百頭空爆(前述)のあと、編隊は宇都宮上空を通過して北茨城沖から太平洋方面に去っていきましたが、その時残った爆弾を投下しました。その爆弾は宇都宮市平出町の雷電神社付近に着弾しました。被害は無かったのですが、これが宇都宮空市民が体験したB29爆撃機との初めての出会いとなりました。
昭和20年2月16日~17日
2月16日、アメリカ機動部隊の空母ヨークタウンを発進した艦載機グラマンF4Uが、宇都宮の清原地区の宇都宮陸軍飛行場(当時清原村)を空襲しました。
また、17日の8時ごろ(アメリカ軍発表7:45~8:10)、艦載機グラマンF6F戦闘機16機が宇都宮陸軍飛行場に駐機中の50機を機銃掃射、20数機を破壊、宇都宮陸軍飛行場の格納庫修理工場を空爆しました。(アメリカ軍発表:地上機3機破壊・破壊の可能性大2機・地上撃破約22機)また市街地に近い上空でアメリカ軍グラマン機3機と日本軍機「疾風」との間で空中戦がおこなわれて、日本軍機「疾風」1機が墜落し民家の2棟が全焼しました。
昭和20年5月7日
11時30分~12時25分、宇都宮地方に空襲警報が発令されています。当地区には全く被害がなく、当日のB29の宇都宮上空の飛行は、上空よりのアメリカ軍による市街地空中撮影が目的だったとされています(米軍資料による)
昭和20年7月7日
0時8分空襲警報発令、2時20分空襲警報解除、(0時40分、ラジオによる東部軍管区情報は、「米軍機宇都宮上空を旋回中なり」と伝えている)。当日、宇都宮市内には爆弾・焼夷弾は投下されることが無く被害の発生はありませんでした。B29は宇都宮市内に空襲予告の伝単(宣伝ビラ)を散布するのが目的だったと考えられています。実際翌8日の日中の宇都宮市の隣組回覧による「緊急疎開令」などのあわただしい動きからも伝単散布の事実が理解されます(7月12日 宇都宮大空襲 空襲の予測 参照)。また警官による伝単の回収の証言もあります。
昭和20年7月10日
房総沖の空母15隻を中心とするアメリカ第38機動部隊(第58機動部隊改称)の800機の艦載機大編隊が関東各地を攻撃しましたが、栃木県内にも4波に分かれて襲来しました。5インチ高性能ロケット弾・260ポンド破片爆弾・500ポンド汎用爆弾・および12.7ミリ機銃弾による攻撃を行いました。
この日の空襲は宇都宮市をはじめ足利市、大田原市,さくら市、高根沢町 那須町、那須塩原市、壬生町、真岡市など主として飛行場と交通機関を狙った攻撃が加えられました、市街地の攻撃を受け都市もあります。
第1波は5時55分コルセアF4U戦闘機11機宇都宮陸軍飛行場を機銃掃射、格納庫を爆撃。
第2波は9時8分F6Fが6機、F4Uが7機、SB2Cが12機、TBMが10機、合計35機からなる戦爆連合が宇都宮南飛行場の格納庫掩体壕などの施設をロケット弾・破片爆弾により波状攻撃を行いました。(第3波は県北地方を襲撃した)
第4波は15時5分、F4Uが9機、SB2Cが12機、TBMが11機、合計29機からなる連合編隊により、宇都宮陸軍飛行場、宇都宮南飛行場を襲撃、特に南飛行場の滑走路周辺の航空機が標的となりました。また宇都宮市江曽島地区(当時横川村)の鉄道、住民も銃爆撃の標的となり、乳児を含め4名死亡、農家3戸が全半壊しました。日光線鶴田駅では宇都宮中学校(現・宇都宮高校)3年生1名死亡、鶴田駅東北方約300メートルに位置する宇都宮中学校(現・宇都宮高校)にも爆弾が理科室を貫通し校舎中央部分に着弾し炸裂しました。宇都宮中心市街地を急襲したとの複数の証言もありますが、被害の発表はなく確かな事はわかっていません。
昭和20年7月12日(宇都宮大空襲)
昭和20年に入り太平洋戦争下、太平洋圏内での日本軍の敗戦が続き劣勢が決定的になった時期に、日本本土への空襲も日増しに激しさを増していきます。
5月7日ドイツが連合国に無条件降伏すると、連合国は第2次世界大戦の終結に向け日本に対し5月8日降伏勧告を発します。6月23日沖縄戦終後、連合国側は降伏勧告の回答を待ち、一時日本本土都市空襲を中断します。しかし日本側は戦争遂行の形でそれを無視。(表・米軍機による日本本土空襲 第4期)空襲を開始されることになります。これまで人口10万人以上の沿岸重要軍事都市、主要地方都市に向けられていたものが、人口10万未満の地方都市に対しての空爆が開始されることになります。(表・米軍機による日本本土空襲 第5期)。
アメリカ軍の地方都市の夜間焼夷弾攻撃は全体で16回(1回で2~6都市)おこなわれましたが、7月12日の宇都宮空襲はその8回目で、一宮市、宇和島市、敦賀市並びに川崎製油所と同時の空襲でした。
空襲の予測
昭和17年の東京中心部、銀座界隈の爆撃の悲惨な情況や20年3月10日の東京下町の大空襲の状況などの情報は逐次市民に伝わってきていました。地方都市空襲が激化するとその他の地方都市の空襲の情報なども頻繁に市民の耳に伝わってくるようなってきます。またアメリカ軍は、日本国民の戦意喪失を目的として、B29から「宣伝ビラ」(当時は伝単 ―でんたんー と通称されていた)を撒いたりしました。「一両日中に空襲をする」といった文面もありました。
7月7日0時40分、東部軍管区情報として「B29数機、宇都宮上空ヲ旋回中ナリ」とのラジオ報道がありました。また空襲警報も発令されましたが(0時8分~ 2痔20分)、宇都宮市内には何らの被害も発生していません。襲来は伝単の散布が目的でした。当時このようなビラはすぐ届けるよう義務化されていて、90パーセント回収したとの警察署担当官の証言もあります。この文面を読んだ市民らから多くの市民に伝わったこと、また7月8日付で回された回覧『衣料家具什器その他必需物資急速疎開に関する件』に「最悪の事態発生スベキ公算大ナル二鑑ミ・・・自力ヲ以テ急速敢行セラレ候様」と記載されていて(この回覧の現物は保存ざれています。)近日中の空襲が予感されたこと、さらに7月10日前後、隣組に対して口伝による「老人、子供、妊産婦は緊急疎開するように」の伝達があったことなどで、多くの市民は数日中の空襲を予感していたと思われます。(※この伝達は多くの市民の証言があります)そのほか、12日の宇都宮市立西小学校の児童の欠席数が突如それ以前の欠席数の3倍に達したこと、当日宇都宮市が重要書類を当日郊外の長岡町の地下壕に移転する手筈が、壕に雨水が漏れだした事で延期となった事情などからも、関係機関も空襲が11日或いは12日に宇都宮空襲が実行されると察知していたもの考えられています。
空襲当日の気象状況
12日の宇都宮地域は気象状況が悪く、朝からの雨でした。当時、一般的には普通は悪天候の場合空襲は行われないという常識がありました。宇都宮地区の当日は雨天であり、多くの市民は、当日は空襲はないだろうと油断していた矢先の空襲となりました。当日アメリカ軍の日本本土の気象予測は、アメリカ軍の資料によると宇都宮地区の当日の天候は部分的に驟雨と予想され、空襲の決行は天候に左右されること無く決行できるものと判断し空襲を決行したものとも考えられます。当時の宇都宮市上空は16,000フィート(約4,900メートル)上空の風速は270度40ノット(風速30メートル弱)で相当強烈な西北西の風が吹き渡っていました。宇都宮上空の気象状況についてはアメリカ軍の記録を見ると「レーダーによる攻撃精度が雨天により著しく損なわれた」と記載されていて、気象状況に関してアメリカ軍の誤算があったことが判断できます。
(当日の空襲時の気象状況については、体験者の間に「雨が降っていた、降っていなかった」と二つの証言があります。朝から午後にかけて確かに降雨がありましたが、空襲時には実際旧馬場町から杉原、尾上、塙田、戸祭方面の降雨の証言はありません。空襲の時間帯の降雨は部分的、或いは時間的なものと判断されます。)
アメリカ軍は当日の宇都宮空襲の中心目標を宇都宮市立中央小学校付近に定めていましたが、気象条件の判断ミスにより、目標が大きく市街地の東南東方向にずれた可能性があります。このことは、殆ど建造物が無い市の東南東に位置する簗瀬町・今泉町南方地区の田畑に、夥しい数の焼夷弾が投下された事実からも了解できます。
宇都宮大空襲の実状
データーに基づいて示す宇都宮空襲は次のとおりです。
アメリカ軍資料 | 日本側資料 | 摘要 | |
空襲参加機数 |
B29ボーイング爆撃機 115機 |
B29ボーイング爆撃機70機 B29ボーイング爆撃機80機 (建設省編『戦災復興誌第四巻』) |
日本側発表では宇都宮70機、茨城中部15機、郡山方面27機となっているが、米軍資料では、仙台・いわきに数機向かったとされている。 |
空襲時刻 |
開始
終了 |
開始
終了 |
|
空襲時の高度 |
1,453メートル 最高4,056メートル |
2,000メートル 乃至3,000メートル |
日本側資料建設省編 『戦災復興誌第四巻』 |
投下した爆弾焼夷弾 |
M47 100ポンド焼夷弾 362.1トン 10,500個
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大型爆弾 2,798個 小型油脂焼夷弾 86,512個 |
日本側資料建設省編『戦災復興誌第四巻』 |
発進基地 | マリアナ群島 テニアン東西基地 | 日本側資料:茨城沖より西進 茂木町付近に侵入、1機~数機の編隊をもって相次ぎ分散進入 |
宇都宮の被害状況
日本側発表 | 摘要 | |
死者 |
571名:1945年8月宇都宮市会協議会 602名:1947年栃木県知事事務引継書 521名:1960年4月宇都宮戦災復興誌 620名:2001年3月「うつのみやの空襲」 |
死傷者の数など数字の上で記録に違いがある。平成21年発行の「うつのみやの空襲」(宇都宮市教育委員会編)では「完全に解明できたとは言い切れない」とし、最低でもこの数字を下回らないだろうと記している620名の死者の数字は、宇都宮市厚生課の発表した数545名(昭和20年宇都宮市事務報告書-埋葬許可証を発行した数字-)に市民外の死者74名さらに当時の村域(姿川村)での死者1名を加算した数字である。当時市内の一向寺に所謂無縁仏として約150体の遺体が葬られたとされているが(後に市営北山霊園に埋葬)、市の調査にはこの中の引き取り手のない遺体の数は含まれていない。負傷者については医師の診断を受けたものに限られており、診断を受けないものまた市外の病院で手当てを受けたものなどは含まれていない、当時かなりの人が宇都宮市外の病院に搬送され、また市外の出身地に避難後に当地で診療を受けたとの証言が多数ある
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負傷者 |
920名 :1947年4月宇都宮特別都市計画事業復興土地区画整理設計書 1,254名:栃木県知事事務引継書 1,128名:『うつのみやの空襲』 |
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全焼住宅施設 |
10,058戸:宇都宮特別都市計画事業復興土地区画整理設計書 11,008戸:1947年栃木県知事事務引継書 9,173戸:『うつのみやの空襲』 |
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半焼住宅施設 |
610戸:宇都宮特別都市計画事業復興土地区画整理設計書 |
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罹災区域 |
1,005,000坪:宇都宮特別都市計画事業復興土地区画整理設計書 3,205平方㎞『うつのみやの空襲』 |
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罹災者 |
48,358名: 宇都宮特別都市計画事業復興土地区画整理設計書 51,559名:栃木県知事事務引継書 47,976名:宇都宮戦災復興誌 |
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罹災世帯 | 10,503世帯:宇都宮戦災復興誌 |
宇都宮空襲に関しての7月13日の陸軍東部軍管区司令部発表は次の通りの簡単なものでした。
東部軍管区司令部發表(昭和二十年七月十三日十一時) 一、 昨七月十二日二十三時頃より約三時間に亘りB29約百四十機は単機又は少數機の編隊を以て管区内に分散來襲し一部の中小都市に對し主として焼夷弾攻撃を加へたり 二、 右攻撃に依り宇都宮市附近並に京浜地區の一部に火災發生せるも十三日未明までに概ね鎭火せり |
※ 平成23年(2011年)の現況においては、死亡者の数は620名以上と『うつのみやの空襲』(宇都宮市教育委員会編・宇都宮市発行・2001年発行)に記載の数字が公式数字とされている。しかし今後数字の変動の可能性を残している。
※13日未明河内村(2009年宇都宮市に合併)の羽黒小学校裏の畑地にも焼夷弾が1個投下されている。宇都宮上空に達したB29爆撃機群は、帰路を鹿沼市市外の北部をかすめ古賀志山周辺で旋回し機首を西方に向け羽黒山付近を智異化して茨城北部海岸から帰還するコースをたどります。その際に残余の焼夷弾を廃棄投下したものと考えられています。
昭和20年7月28日
艦載機P51、14機による宇都宮市内空爆と機銃掃射によって30名以上が死去しました。 当日12時ごろP51戦闘機は国鉄(JR)宇都宮駅周辺を乱射、駅構内及び駅前日清製粉宇都宮工場を襲撃、下野中学校生(現在の作新学院高等学校)204名が、焼け跡の後片付けに勤労動員されていましたがこのうち5名が犠牲になりました。当日は宇都宮中学校(現・宇都宮高校)、宇都宮第一女学校(現・宇都宮女子高校)、宇都宮工業学校(現宇都宮工業高校)の生徒も焼け跡片付けに動員されていましたが、市立簗瀬小学校の焼け跡整理中の宇都宮中学校2年生1名、日本加工宇都宮工場(宇都宮駅東、当時防毒マスクを製造)女子職員1名、国鉄職員1名が駅構内で犠牲となりました。この攻撃で駅構内に停車していた青森行き貨物列車牽引の機関車2台が走行不能に、日光行き列車も田川鉄橋付近で攻撃にあい走行不能となりました。当日宇都宮駅日光線ホームで兵士1名も犠牲となりました。当日は全体で30名以上の死者が出たとされています。
この空襲に参加した艦載機のうち3機は、宇都宮を発車した上り上野行きの列車を追い、宇都宮駅から戦死者の遺骨を抱いて乗車した遺族らを迎えるために小金井駅に集結していた群衆を襲撃し32名の犠牲者を出すことになりました。また列車も銃撃を受けたため列車の乗客の中にも多数の死傷者を出すことになりました。
そのためこの日の空襲は県内で70名以上の犠牲者を出したことになり、7月12日の宇都宮大空襲に次ぐ大きな犠牲者を出す悲惨な結果をまねくことになりました。(下野市の空襲を参照してください)
当日は、慰霊と、送迎のため宇都宮駅並びに小金井駅には軍関係者も多数駐在していましたが、軍関係者の被害の状況については、発表されていません。
昭和20年7月30日
第1波 午前6時20分、艦載機グラマンF6F 15機(イギリス軍の艦載機だったのではないかとも言われている)による宇都宮市街地空爆機銃掃射。栃木師範学校(現在の宇都宮大学教育学部、県立中央女子高所在地)近辺に爆弾投下と機銃掃射を行い、清掃のため学校に集っていた人たち7名が死亡、多くの負傷者を出しました。また新里方面へと逃げ惑う人々を追い、多くの負傷者を出し、うち1名が病院で死亡しました。師団司令部(現国立病院所在地)の南側にも爆弾が投下され民家が破壊され2名が犠牲となりました。偕交社(陸軍将校社交場。現・県立美術館東、桜美公園)前にも爆弾が投下、民家が破壊され2名の方が死去しています。なお宇都宮を空襲した15機のうち数機は、氏家町(現・さくら市)高根沢町も襲い、氏家女学校に機銃掃射を行い、爆弾を投下して負傷者を出しています。
第2波 14時15分、F6F 11機、宇都宮飛行場空襲日本機5機破壊、偕交社(現県立美術館所在地付近・陸軍将校社交場)、河内町・白沢(現・宇都宮市)、高崎製紙工場空爆及び機銃掃射
第3波 14時50分頃、F6F 8機、宇都宮飛行場格納庫を破壊、機関車を大破させました。その際、日本軍の高射砲攻撃を受け1機が撃墜されました。
第4波 16時、艦載機F6F 36機、28日と30日の空襲で犠牲者は42名以上に達しました。
昭和20年8月13日
午前中2波に分かれて来襲した艦載機F6Fは宇都宮南飛行場をはじめ宇都宮周辺の軍需施設を爆撃、機銃掃射、8名が犠牲になりました。そのとき、勤労動員として派遣されていた宇都宮実業学校(宇実-宇学、現・文星芸術大学付属中・高校)3年生(さくら市在住―さくら市の項参照)も犠牲になっています。
※宇都宮の空襲についての詳細は、は宇都宮市教育委員会編「うつのみやの空襲」(2001年3月31日宇都宮市教育委員会発行)を参考してください。